秋田英男の「視」の絵画 瀬木慎一
この画家の絵画には一貫して、「視」というテーマが掲げられている。それに時には、透、布、空、地、環などという副題が付されている。
「視」とは一体何か。正字ではその「衣」扁は「示」扁である。それで分かるように、本来の字義は、「示してあるものを明らかに見ること」なのである。 確かに、そこに何かが示されていなければ見ることはできない。しかし、「見ること」はもう少し多様で、かならずしも示されているものに限らず、偶然に見るものも、みずから見いだして見るものもある。絵画はそのような多様な行為から生まれてきた。 特に近代絵画ではそうであるが、その発展である私たちの現代の絵画では、見えない物や無い物までも、見たものと等価に描いている。そして、この画家の「視」はさらに先の行為と言っていい。
作品画像 一見して、何が描かれているのか分明でないような画面であるが、けっしてそうではなく、あくまでも物理を超えた物の深奥に、存在の本源的なヴィジョンを洞察しようとする企図であり、先例としてはフランスの「アール・ブリュット」(生の芸術)の画家デュビュッフェのメタフィジック風景があり、それに連なる「視」の独特の営みに他ならない。 そこに表現として現れるものは、必然的に、非色・非形の微粒で微光の表皮のごときものとなるが、もしそこに湧出している何らかのメタフォール(暗喩)を読み取るとすれば、存在の萌芽である原初のうごめき、あるいは反対に、その終極のカオスの鎮まりとでも言うべきヴィジョンがあり、この至難なモルフォ(形態)を捉えたものとしては、彼の絵画はこの上もなく鮮明である。
(瀬木慎一)